タモリさんといえば明石家さんまさん、
ビートたけしさんらとともにお笑いのビック3と称される人です。
「笑っていいとも」を始め数々の番組で司会を務め、
今や芸能界を代表する名司会者といえるでしょう。
しかしタモリさんは多くの有名人のような、
若くから順風満帆の芸能人性というわけではありませんでした。
そもそも芸能界入りしたのも、30直前と遅咲きだったのです。
早稲田大学を中退し、
地元の九州に帰ってからは保険外交官として、
3年間仕事をしたのちにボーリングの支配人へ。
その時期は、ちょうどボーリングがブームとなっていました。
しかしそのブームが終了すると、
喫茶店の支配人からガードマン、
ヘビ使いなどと本当に業種問わず、
様々な仕事については辞めてを繰り返していました。
時には、
いわゆるヒモのようなこともしていたそうです。
社会人としては明らかな落ちこぼれ人生だった当時は、
「このままでいいのかな」
と思い悩む日々だったと言います。
そんなタモリさんの運命を変えたのは、
知り合いと飲んで帰った時のこと。
たまたま見かけた『ホテルの半開きのドア』が、
タモリさんの人生を大きく変えたのでした。
半開きのドアの向こうで…
ある日タモリさんが知り合いとホテルで飲んで帰る時、
そのホテルの一室から賑やかな音が聞こえてきました。
そのドアは鍵がかかっておらず、半開きでした。
タモリさんは思わず扉を開けて中を覗きました。
部屋の中ではタモリさんの知らない方々の、
どんちゃん騒ぎが繰り広げられていました。
ちょうどタモリさんが覗いた時には、
ゴミ箱を被って虚無僧に扮した人が、
歌舞伎のまねごとなどをしていたそうです。
それを見たタモリさんはハッとしました。
「俺の感覚と同じじゃないか。これは俺を呼んでいる」
虚無僧の真似をしている人の頭からゴミ箱を取り上げ、
なんとタモリさん自身も一緒に踊り始めたのです。
すると突然乱入したタモリさんに対し、
部屋にいた方々の1人がインチキ中国語でなじりました。
それに対してタモリさんは、
それよりもさらにうまいインチキ中国語で返答。
その部屋の人々とあっという間に仲良くなってしまったのです。
その一瞬で仲良くなってしまった部屋の人たちとは、
ジャズピアニストの山下洋輔さんとそのメンバーでした。
タモリ探し
その夜の山下さんとタモリさんは、
お互いに名前を名乗っただけで別れたのですが、
山下さんたちはあの日のタモリさんが、
どうしても忘れられませんでした。
タモリさんのインパクトが凄まじかったのです。
博多で知り合った面白いあいつと、
もう一度会いたいという一心で、
そこから多くの人を巻き込むタモリ探しが始まりました。
しかし手がかりは、
「博多にいるジャズ好きの森田という苗字の男性」
これだけです。
ひとまず博多で最も有名なジャズ喫茶に訪ねたところ、
常連の客に同じ名前の人がいると判明しました。
そに人物こそタモリさんだったのです。
こうして幻の素人芸人、
タモリこと森田一義さんは山下さんたちを中心とした
「伝説の九州の男、森田を呼ぶ会」
がお金を支援したことよって上京を果たすことになりました。
早稲田大学を中退して地元に帰ってから、
7年が経っていました。
ちなみに上京したばかりの頃は、
仲間の2DKの都営住宅に居候していたそうです。
素晴らしき居候生活
その後、タモリさんは知り合いの家を転々としていましたが、
やがて師と仰ぐ赤塚不二夫先生の家において、
VIP待遇のごとき居候生活を送ることになりました。
住居は4DKの高級マンションでベンツは乗り放題、
さらに赤塚先生から月20万円のお小遣いまで支給されました。
そんな居候生活の中で得た極意は、
「卑屈になるな」だったそうです。
ちなみに赤塚先生は、
タモリさんに豪華なマンションを提供しながら、
ご自身は、
事務所のロッカーを横倒しにして寝ていたそうです。
タモリさんはそれについてこのように振り返っています。
そのことに気がついた時はグッとこみあげるものがあったんだけど、ここでグッときたら居候道に反すると思ってこらえましたね。
もしあの時、
ああしていなかったらどうなっていただろう?
そんな風に考えさせられる、
人生のターニングポイントになる瞬間は、
おそらく多くの方が経験しているのではないでしょうか?
タモリさんにとってはそれが
『ホテルの半開きのドア』だったということですね。
タモリさん自身このように語っています。
「俺の人生の扉、ドアはあのホテルのドアだった。あれを開けると開けないでは人生が変わっていた」
もしかしたらあなたにとっての”人生の扉”も、
実は目の前にあるのかもしれませんよ。