今では友達とのやり取りに、
手紙を書く人は少ないかもしれません。
メールやLINEなどを使えば、
手軽にメッセージが送れるので、
わざわざペンを使って紙に思いを伝える機会も、
かなり減ってきたのではないでしょうか?
しかし、
71年も前になると電話も高額で、
誰の家にでも設置されていたわけではありません。
手紙が主流のこの時代、
Twitterユーザーの台湾人さんが当時、
おばあちゃんに宛てて友達が書いた、
というメッセージを見せてもらったそうです。
日付けは1945年。
この年は広島と長崎に原爆が投下され、
昭和天皇の終戦勅書がラジオで放送されました。
第二次世界大戦が終結した転換期に、
お友達は達筆な文字で、
まるで詩のような美しい別れの手紙を残したそうです。
隠れたメッセージ
混乱した世の中でも春に思いをはせ、
成長していく草木に自分たちを重ね合わせたような、
若々しい詩の内容です。
春だ春…
草木も なびく常夏の蓬莱へ
御旗は はためく 青天の
元気を 失はず 新しき出発よ
気と心で結ぶ 新台湾
では さやうなら
「お婆ちゃん、これ横書きだね」
「横書き?」
「ほら、文頭の文字を横に読むと"春草(祖母の名)御元気で"って…」
「まぁ…今気付いたわ!」
野口さん! 70年とちょっとかかりましたが、しっかり伝わりましたよ! 今も元気です!!(笑) pic.twitter.com/bTgjl8P2Xs— 台湾人 (@Taiwanjin) August 15, 2016
時代を感じさせる美しい詩ですが、
お孫さんである台湾人さんはある事に気が付きました。
手紙の文字を横に読むことでで、
率直におばあちゃんへ伝えられたメッセージが、
隠されていたのです。
高雄海軍工作部の台湾人
「文頭の文字を横に読むと“春草(祖母の名)御元気で”」
と書かれていることに、
70年の時をへて台湾人さんのおばあちゃんに伝わりました。
春草さんは戦時中、
台湾の「高雄海軍工作部」で働いていたそうです。
戦争終結まで存在していた工作部は主に船の保守点検、
修理を行う施設だったとのこと。
祖母が「私が命の次に大切にしているもの」と見せてくれた写真とノート。昭和20年、終戦の年。寝食を共にしてきた高雄海軍工作部の日本人は全員日本に引き揚げることになった。これはそこで唯一の台湾人女性だった彼女に仲間が遺していった宝たち。 pic.twitter.com/tXxjWWOQzC
— 台湾人 (@Taiwanjin) August 15, 2016
その病舎で唯一、
最年少の台湾人だった春草さん。
終戦後は、
日本人の仲間は台湾から引き揚げることになりました。
その時に受け取った記念の手紙や写真を、
春草さんは宝物のように大切にしていたのです。
台湾人さんが春草さんから見せてもらった宝物の中で、
心をつかんだのは
「道原軍医長」からの手紙だったそうです。
未来へのメッセージ
新しい東亜 それは中国と日本とが本当に握手する事です
貴女も大いに努力して下さい。そして、立派な良い結婚をする事。女の子の道を正しく行く事。
元気で、朗らかに、明るく。苦しみに決して負けぬ様に。
何時も、健康体であることを祈ります。
又 會ふ日迄。サヨナラ。
道源軍医長春草さんへ
「新しい東亜 それは中国と日本とが本当に握手する事です」
戦争に敗れ、これから苦難が待つ身にありながらもアジアの未来を想う道源軍医長の言葉が強く響く。だから、今なおアジアの国々が互いにレッテルを貼り、罵り合うことに私は価値を見ない。 pic.twitter.com/RLvjXD4Djv— 台湾人 (@Taiwanjin) August 15, 2016
春草さんに宛てた手紙には、
相手の魂が込められているように感じます。
みんなから愛されていたことが伝わりますね。
この部署で最年少だった台湾人の祖母に、日本人の仲間たちが別れ際に寄せた文の数々。その何れもが祖母を励まし、気遣い、笑わせ、尊敬の念さえも感じさせる気高いものだった。これは71年前の戦争で私が直接知り得る、紛うことない一つの真実です。 pic.twitter.com/W5hAVcGOtd
— 台湾人 (@Taiwanjin) August 15, 2016
日本人の仲間たちから寄せられた温かいメッセージの数々、
あの酷い戦争の中に光は差していたのです。
素敵なエピソードに胸が熱くなりました。